2013年4月2日火曜日

三遊亭円右 from 泉のほとり / 正宗白鳥


私が田舎からはじめて東京に出て来た時には噺し家では円遊、女義太夫では綾之助が全盛であったようだ。私は歌舞伎芝居に対しては、少年時代から草双紙や浄瑠璃本など徳川文学に親炙していた結果であろうか、早くから熱烈なる憧憬を寄せていたのであったが、寄席については、あまり興味をもっていなかった。それで友人どもが盛んに寄席入りをして、そのうちの二三人が、落語や女義太夫に惑溺して、円遊のステテコ踊りを真似、成田小僧や地獄廻りなどの口真似を得意でやったりしているのを、趣味の下劣な奴として蔑視していたのであったが、しかし、たまには友人の誘惑に乗って、和良店などへ出掛けて、円遊の話や金馬のすいりょう節などを聴いたことを今でも覚えている。
私が盛んに寄席入りをしだしたのは、学校卒業後のことでそれは寄席芸人に興味をもつようになったためではなかった。下宿に夜一人でなにもしないでいるのが、淋しくって退屈で堪えがたかったので、散歩した帰りに、もっと面白い処へ行く金はないし、まあ寄席でも寄って見ようかという気になったのであった。私は芸人の滑稽な身振りを見ても滑稽な話を聞いても、滅多に笑ったことはなかった。聴衆が相好を崩して笑っているのを、むしろ浅間しく苦々しく思っていた。よく行った席は若竹であった。その処で円喬の「牡丹燈籠」を続けて聴いたが、これだけは本当に面白いと思われた。
その頃落語研究会が起こされて、最初の会が常盤木倶楽部で開かれた時に、私は新聞記者として招かれたが、身の入った落語を身を入れて聴いたのは、その時はじめてであったと云っていい。小さんの「小言幸兵衛」円喬の「茶金」円左の「富久」馬楽の「ちぎり伊勢屋」など、みな面白かった。円右もその時、出演したのであったが、その時彼が何を話したか覚えていないのによって見ると、私が彼から与えられた印象は他の人よりも、希薄だったのであろう。
私は三十代に入って寄席に遠ざかりだしてからも、円喬はよく聴いた。独演会というものが起こって、円喬も独演をやった。その第一回か、あるいは第二回目かを、私はベッタラ市の晩に人形町の寄席で聴いた。その時の彼は四十度の熱を忍んで出たと傍の人が云っていたが、それが円喬のこの世に於ける最後の所演であった。私は目の窪んだ窶れた顔した彼が、累ヶ淵の土手新のお静殺しを話した凄みを、今もありありと目に浮かべることが出来る。聴衆は極めて少なかった。
円遊死し円喬死し、円左死し、重立った者が次第に少なくなるにつれて、生残ったものが、一層光を増すようになるのは何処の社会でも同じことである。円右や小さんは長生して運がよかった。私は円喬の死後はこの二人を比較的よく聴いた。小さんの方には旧套を脱した写実味があって、面白いのであろうが、私は二人会を聴いて時々円右の方に心が惹かれたことがあった。
今でもそうであろうが、円右は以前よく役者の声色を使ったり鳴物入りで芝居の真似をやったりしたが、私はあれを好まなかった。「唐茄子屋」「子別れ」「火事息子」「名人長次」など、私の聴いた少数の話によっても、彼の熟練した話っ振りは巧いには極っているが、型に入った古臭さが、円喬よりも円蔵よりも、あるいは馬楽よりも、一層つよく私に感ぜられたのは、どういうものなのであろう。子供となると、指をいじったり、老婆になると、抜衣紋で首を突出したりする仕草がいつも同じように私には感ぜられた。旧劇の歌六と同じような味わいを私は彼の芸に於いて感じることが多かった。
嘗て、伊藤井上などの数多の貴人に侍して汽車の中で話をしたという昔語りをちょっとしたことがあったが、「伊藤の御前が」「松方の御前が」と、いやにあがめ奉るばかりで、彼等の言語動作が少しも具体的に現されなかった。芸術家の一人である円右を幇間視して、彼等が車中の徒然を慰めている態度を、彼は少しも描き得なかった。傑れた噺家は、そういう自分の見聞した世相に対して、何かの観察がなければならないと思う。小さんだったら、多少の皮肉や揶揄ぐらいはあったろう。
しかし、「按摩の宗悦」を聴いた時には、こいつは巧いと感服した。一生にそう多く経験されない芸術の威力を、私は感じた。これによって、私は、円右を現代の名人だということに同意してもいい。二十余年来私も数多の古風な人情噺を聴いている訳だが、そのうち、真に聴くに値したものは円喬の牡丹燈籠、その他数種と円右の宗悦ぐらいなものであった。
from 泉のほとり / 正宗白鳥 (新潮社, 1924)

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