2013年4月4日木曜日

三遊亭円遊身上噺 from 三遊亭円遊滑稽落語集(大学館, 1910)

はしがき

円遊は近世落語界の奇才である。円喬名人と雖も人気に於いて円遊の敵でなく、小さん、左楽一方の雄なれどもその全盛遠く円遊と肩をならぶることは出来ぬ。円遊の落語はダラシが無く他愛もないようだけど、そのダラシが無く他愛の無いところに価値ねうちがあるのだ。今や彼は白玉楼中の人となって、またあの様な水際の立った流麗なしかも奇抜な落語を聴くことが出来ぬ。唯一速記に依って彼の口調面影をうかがうことが出来るのだが今次円遊落語集の刊行に当って往時を追想して一言を巻首に題したのである。          (翠生記)

故三遊亭円遊身上噺 小野田翠雨編

円遊わたくしは神田紺屋町の紺屋の倅で竹内金太郎と申しまして、これでも生粋の江戸っ子でございます、子供のうちから落語が好きでどうしても手の先を青くして染物などをしている気はありません、そこで家を弟に譲って身を落語界に投じましたが、ずいぶん苦しい修業をしました。
▲その頃三遊亭円朝さんが芝居話で大層売出していたので、円朝師の門に入り、円朝さんがトリにシンミリした人情話をやって客を泣かせる、円遊わたくしはその前に高座に上がって誠に他愛もない毒にも薬にもならないお話をしてお客を笑わせる、円遊わたくしがお客の気に入ったのは、ステテコを踊ったのが始まりでございます。
▲「円遊ステテコ、談志の釜堀りテケレッツノパ」と俗歌うたにまでうたわれました位で、円遊てまえのステテコと、談志のテケレツノパとはその当時自慢じゃありませんが、場内割れるばかりの喝采でございました。円遊てまえのステテコは色々種類がありまして、立ったステテコ、座ったステテコ、横のステテコ、竪のステテコ、いざりのステテコ、生酔のステテコ、病人のステテコ、士族のステテコ、町人のステテコ、金持ちのステテコ、貧乏人のステテコ、沢山ございますが、その中でも得意なのはいざりのステテコ、生酔のステテコ、この二つなんざァお客をずいぶん笑わせました。
▲それから円遊てまえの愛嬌なのはこの鼻でげす、高座へ上がるとこの大きな鼻を右の手がツルリと撫でる、お客様が「もう一度撫でろ」と仰る、「よい来た」と一度撫でる、お客様が「もう一つ負けろ」と仰る、お負けを一つ撫でる、今度は「付録ッ」と仰る、付録に撫でる、「号外ッ」と仰る、「宜しいッ」と号外にまた撫でる、なんで高座へ上がってから五六度は鼻を撫でます、それから鼻の講釈を始める。
▲「エエ円遊てまえの鼻は御覧の通りはなはだ大きい、しかし人間万事はなの世の中、兎角世間ははなに酒、はなかしこ、はなかしこ………」などと下らないことを言って誤魔化していてもお客様はお喜びになる。
▲円遊てまえの新作の落語は、地獄旅行、素人人力、成田小僧、野晒し、テレテレテレ、全快、薬力、金魚の拝謁おめみえ、梅見の薬缶やかん、天産株式会社、明治の浦島、龍の旅行などで、兎角落語の新作というものは難しいものでございます。
▲落語などは猶更時勢に合わして往かなけれァならぬもので、その新作をやるものが今日の落語家に皆無であるのはなんとも嘆かわしい次第であります、しかし新作が難しいと言えば言うものの、少し頓智を利かせれば直ぐに出来る。例えば男女同権という言葉が流行れば、 男「ヤイヤイ女房、なんだって手前は俺の留守に芝居に行ったり寄席へ行ったり遊んでばかりいるんだ」 女「お前だって毎日毎晩家に居たことがないじゃないか」 男「亭主が遊んで歩くたって女房まで家を留守にする奴があるものか」 女「イイエ男女同権だよ」 男「生意気なことを言やがる」ポカリと女房の頭をなぐる 女「エー口惜しい口惜しい、同権だ同権だ」と突然いきなり亭主の向う脛へ喰い付く、これじゃァ同権でなくって狂犬でございます。 といったようにやればよいのです。
円遊てまえが柳橋へ芸者屋を出したり、いろいろ失敗した可笑しいお話も沢山ございますが、大抵新聞や雑誌に出ましたから申し上げません。

2013年4月2日火曜日

三遊亭円右 from 泉のほとり / 正宗白鳥


私が田舎からはじめて東京に出て来た時には噺し家では円遊、女義太夫では綾之助が全盛であったようだ。私は歌舞伎芝居に対しては、少年時代から草双紙や浄瑠璃本など徳川文学に親炙していた結果であろうか、早くから熱烈なる憧憬を寄せていたのであったが、寄席については、あまり興味をもっていなかった。それで友人どもが盛んに寄席入りをして、そのうちの二三人が、落語や女義太夫に惑溺して、円遊のステテコ踊りを真似、成田小僧や地獄廻りなどの口真似を得意でやったりしているのを、趣味の下劣な奴として蔑視していたのであったが、しかし、たまには友人の誘惑に乗って、和良店などへ出掛けて、円遊の話や金馬のすいりょう節などを聴いたことを今でも覚えている。
私が盛んに寄席入りをしだしたのは、学校卒業後のことでそれは寄席芸人に興味をもつようになったためではなかった。下宿に夜一人でなにもしないでいるのが、淋しくって退屈で堪えがたかったので、散歩した帰りに、もっと面白い処へ行く金はないし、まあ寄席でも寄って見ようかという気になったのであった。私は芸人の滑稽な身振りを見ても滑稽な話を聞いても、滅多に笑ったことはなかった。聴衆が相好を崩して笑っているのを、むしろ浅間しく苦々しく思っていた。よく行った席は若竹であった。その処で円喬の「牡丹燈籠」を続けて聴いたが、これだけは本当に面白いと思われた。
その頃落語研究会が起こされて、最初の会が常盤木倶楽部で開かれた時に、私は新聞記者として招かれたが、身の入った落語を身を入れて聴いたのは、その時はじめてであったと云っていい。小さんの「小言幸兵衛」円喬の「茶金」円左の「富久」馬楽の「ちぎり伊勢屋」など、みな面白かった。円右もその時、出演したのであったが、その時彼が何を話したか覚えていないのによって見ると、私が彼から与えられた印象は他の人よりも、希薄だったのであろう。
私は三十代に入って寄席に遠ざかりだしてからも、円喬はよく聴いた。独演会というものが起こって、円喬も独演をやった。その第一回か、あるいは第二回目かを、私はベッタラ市の晩に人形町の寄席で聴いた。その時の彼は四十度の熱を忍んで出たと傍の人が云っていたが、それが円喬のこの世に於ける最後の所演であった。私は目の窪んだ窶れた顔した彼が、累ヶ淵の土手新のお静殺しを話した凄みを、今もありありと目に浮かべることが出来る。聴衆は極めて少なかった。
円遊死し円喬死し、円左死し、重立った者が次第に少なくなるにつれて、生残ったものが、一層光を増すようになるのは何処の社会でも同じことである。円右や小さんは長生して運がよかった。私は円喬の死後はこの二人を比較的よく聴いた。小さんの方には旧套を脱した写実味があって、面白いのであろうが、私は二人会を聴いて時々円右の方に心が惹かれたことがあった。
今でもそうであろうが、円右は以前よく役者の声色を使ったり鳴物入りで芝居の真似をやったりしたが、私はあれを好まなかった。「唐茄子屋」「子別れ」「火事息子」「名人長次」など、私の聴いた少数の話によっても、彼の熟練した話っ振りは巧いには極っているが、型に入った古臭さが、円喬よりも円蔵よりも、あるいは馬楽よりも、一層つよく私に感ぜられたのは、どういうものなのであろう。子供となると、指をいじったり、老婆になると、抜衣紋で首を突出したりする仕草がいつも同じように私には感ぜられた。旧劇の歌六と同じような味わいを私は彼の芸に於いて感じることが多かった。
嘗て、伊藤井上などの数多の貴人に侍して汽車の中で話をしたという昔語りをちょっとしたことがあったが、「伊藤の御前が」「松方の御前が」と、いやにあがめ奉るばかりで、彼等の言語動作が少しも具体的に現されなかった。芸術家の一人である円右を幇間視して、彼等が車中の徒然を慰めている態度を、彼は少しも描き得なかった。傑れた噺家は、そういう自分の見聞した世相に対して、何かの観察がなければならないと思う。小さんだったら、多少の皮肉や揶揄ぐらいはあったろう。
しかし、「按摩の宗悦」を聴いた時には、こいつは巧いと感服した。一生にそう多く経験されない芸術の威力を、私は感じた。これによって、私は、円右を現代の名人だということに同意してもいい。二十余年来私も数多の古風な人情噺を聴いている訳だが、そのうち、真に聴くに値したものは円喬の牡丹燈籠、その他数種と円右の宗悦ぐらいなものであった。
from 泉のほとり / 正宗白鳥 (新潮社, 1924)